歴史の扉へようこそ。旅人です!
今回は仏教受容をめぐる戦場跡に建つお寺:大聖勝軍寺(だいしょうしょうぐんじ)の歴史と御朱印情報をまとめました!
- 聖徳太子の命を救った樹が今もある!?
- 敗者:物部守屋が祀られている!?
- いただける御朱印は○種類!
大聖勝軍寺 創建の歴史
欽明天皇の御代(538or552)、日本に仏教がもたらされました。それ以後
「仏教を認めるか否か」
で日本は二分されます。
蘇我氏を中心とする崇仏派は「仏教を取り入れるべき」と主張。一方、物部氏や中臣氏を中心とする排仏派は「仏教を取り入れたら日本古来の神々が怒る」と反対します。
用明天皇二年(587)、聖徳太子・蘇我馬子連合軍(崇仏派)vs物部守屋(排仏派)の戦争が勃発。結果的に
崇仏派が勝利を収め、日本に本格的に仏教が取り入れられる
こととなりました。
推古天皇二年(594)、その戦場跡に建てられたのがこの大聖勝軍寺なのです。
聖徳太子の命を救った神妙椋樹
戦時中、物部守屋軍に包囲された聖徳太子。絶体絶命!
その時、
大きな椋の樹が二つに割れ、太子はその割れ目に隠れて難を逃れます。
太子はこの椋樹こそ四天王の化身と思い、「戦後、四天王を祀る寺を創建する」ことを誓います。
すると、迹見赤檮(とみのいちい)が放った鏑矢が物部守屋を倒し、勝利することができました。
戦後、誓いのとおり、椋樹の側に草堂(太子堂)を創建。自ら植髪太子像を刻み四天王像と共に安置しました。
なんと、この伝説の椋樹が今も境内にそびえています!
付近には説明も。
まさにこの場所が「日本仏教黎明の地」というわけです!
信貴山ともゆかりのある毘沙門堂
境内の毘沙門堂にはこんな伝説が。
物部守屋との戦時中、一時信貴山に難を避けた聖徳太子。
すると、信貴山に毘沙門天が出現し、勝利を収めることができました。
太子は一刀三礼して毘沙門天像を2体刻みます。このうちの1体を信貴山朝護孫子寺に、もう1体をこちらの毘沙門堂に祀ったとのことです。
太子ゆかりの寺信貴山朝護孫子寺にまつわる伝説も残っているんですね!
丁重に葬られた物部守屋
物部守屋の首を洗ったと伝わる「守屋池」
物部守屋を倒したのち、秦河勝は守屋の首を切り落とし、池で洗い、太子に献じます。
その首を洗った池が「守屋池」として境内に残ります。
物部守屋の墓
また、太子は守屋の首と体を頭塚・躰塚の二つの塚に分け、丁重に葬りました。
墓の周囲には熊野那智大社や太宰府天満宮、石清水八幡宮など有名な神社の名前がずらりと並んでいます。
排仏派の守屋は日本古来の神々を重んじ戦ったため、現在も崇敬を集め、毎年6月の日曜日には物部守屋公墓前祭が行われています。
「戦後は敵味方なく祀る」という日本の美徳
が垣間見えますね。
御朱印
御朱印は下記の3種類です。
下の太子
太子殿
毘沙門天
そもそも御朱印とは?
「そもそも御朱印って何?」という方はこちらの記事もどうぞ。
アクセス
電車
JR「八尾」駅から徒歩約12分
車
駐車場あり
河内三太子
叡福寺・野中寺と合わせて「河内三太子」
とも言われます。
詳しくはこちらの記事をご覧ください!
まとめ
- 聖徳太子を救った神妙椋樹が今も立つ!
- 物部守屋は神道にとって崇敬の対象!
- 大聖勝軍寺は仏教受容の古戦場に建つ聖地!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
コロナでなかなか寺社巡りに出かけることもできませんが、このブログを読んでいただき、
「Stay Homeで寺社参拝」
した気分になっていただければ幸いです。是非、他の記事も覗いていってください!
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