歴史の扉へようこそ。旅人です!
今回は聖徳太子が眠る大阪のお寺
叡福寺(えいふくじ)
の歴史や御朱印情報をピックアップしました!
今回のポイントはこちら。
- 聖徳太子のお墓選びにまつわるぶっ飛んだ伝説とは?
- 山門にはあの総理大臣の扁額が?
- 叡福寺でいただける御朱印・御朱印帳・御朱印帳袋の種類は?
叡福寺の歴史
推古天皇三十年(622)、聖徳太子が薨去した後、
聖徳太子の陵墓の守護と追福のため
一堂を構えて創建したのが叡福寺の始まりです。
神亀元年(724)、聖武天皇の勅願により伽藍を造営。元は法隆寺のように東西両院からなっていました。
天正二年(1574)織田信長の兵火により焼失。
現在の建物はその後再建したものです。
河内三太子
叡福寺は河内三太子の一つです。
河内三太子って何?という方はこちらの記事もご覧ください。
三骨一廟
「三骨一廟」の言われ
推古天皇三十年(622)の2月22日、太子が薨去。
母:穴穂部間人皇后、妃:膳部郎女とともに合葬されたため
「三骨一廟」と呼ばれるようになりました。
御廟候補地の選定伝説
御廟をこの地に選定する際にはこんな伝説が。
聖徳太子が27歳の時、神馬「甲斐の黒駒」に乗り、富士山山頂へいたりました。(この時点でぶっ飛んでますね^^;)
その時、西方から五色の光を見出し、その光の出ている場所を自分の墓所に選定しました。それがこの地というわけです。
なお、御廟の裏山は「五字ヶ峰」と呼ばれ、ここが五色の光の出ていた場所とされており、山頂には今も宝篋印塔が建っています。
高僧の参籠
三骨一廟前には
空海、良忍、親鸞、日蓮、証空、一遍
ら高僧も参籠しました。
日本仏教における聖徳太子は、宗教の祖という意味ではキリスト教におけるイエスやユダヤ教におけるモーセ、イスラム教におけるムハンマドのような存在でしょう。
その意味では、後世の高僧にとって、聖徳太子の墓地がある叡福寺は
日本のエルサレム
とも言えるような聖地だったのではないでしょうか。
山門の額
叡福寺の入り口である山門にはあの元総理が書いた額があります。
岸信介元総理
ですね。
日本で総理就任期間が最長だった
安倍晋三元総理のおじいさん
です。
保守政治家という点で、安倍さんがおじいさんの血を継いでいることがよくわかります。
御朱印
聖徳廟
上之太子
聖徳太子一四〇〇年御遠忌限定御朱印
こちらの御朱印の模様は「双龍連珠円文綾残欠」という
「聖徳太子の衣服」
として寺に伝わる宝物の模様です。
この宝物は
「聖徳太子 日出づる処の天子」展で見ることができます(東京展のみ)
叡福寺をはじめとする河内三太子や四天王寺など大阪の太子信仰がよくわかる展示です。
ぜひ、こちらの記事を読んで会場へ足を運んでみてください。
御朱印帳
御朱印帳は5色のバリエーションがあります。
御朱印帳袋
御朱印帳袋には叡福寺に伝わる聖徳太子絵伝のイラストが。
黒駒に乗り富士山を飛び越える聖徳太子の姿が印象的ですね。
そもそも御朱印とは?
「そもそも御朱印って何?」という方はこちらの記事もどうぞ。
アクセス
電車
近鉄南大阪線「上ノ太子駅」または近鉄長野線・「貴志駅」より「聖徳太子御廟前」バス停下車
車
駐車場あり
付近の寺社:西方院
道を挟んだ向かい側には聖徳太子の三人の乳母が開いたと伝わる西方院というお寺が。
こちらについても別記事で詳しく取り上げています。
まとめ
- 叡福寺は日本版エルサレムのような日本仏教の聖地だった!
- 山門には岸信介元総理の扁額が!
- 叡福寺でいただける御朱印・御朱印帳・御朱印帳袋はバリエーション豊富だった!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
コロナでなかなか寺社巡りに出かけることもできませんが、このブログを読んでいただき、
「Stay Homeで寺社参拝」
した気分になっていただければ幸いです。是非、他の記事も覗いていってください!
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