歴史の扉へようこそ。旅人です!
現在、東京国立博物館で『聖徳太子1400年遠忌記念 聖徳太子と法隆寺』展が開催中です(令和3年9月5日まで)。
僕は一足先に奈良国立博物館で見てきたんですが、貴重な仏像や資料が一堂に会し、聖徳太子信仰の変遷と法隆寺の歴史がよくわかる展示でした。
歴史好きや聖徳太子ファンにとっては必見の内容だったので、特に面白いと個人的に感じたところを皆さんと共有できたら良いなと思います!
今回の記事では、この展示の見どころについて解説します。
- 法隆寺の宝物(秘仏含む)が大量公開!
- 資料は証言する。「聖徳太子は確かにいた!」
- 「聖徳太子」像の変遷
- 見逃せないお土産・グッズ3選
ちなみに、聖徳太子と法隆寺については別の記事でも解説しているので、そちらもご覧ください。
法隆寺の宝物(秘仏含む)が大量公開!
今回の展示では、法隆寺でも秘仏となっている仏像をはじめ、多くの貴重な文化財を目にすることができます!
聖徳太子および侍者像

こちらが今回の目玉の「聖徳太子および侍者像」です。
この像は聖徳太子500年遠忌のさい(平安後期)に制作され、法隆寺・聖霊院の秘仏本尊です。

聖霊院は法隆寺の御朱印をいただけるお堂ですが、普段参拝してもこの像を見ることはできません。
この像のすごいところは、なんと体内に「法華経」「勝鬘経」「維摩経」を納めた三連筒形の容器を据え、その上に観音像が安置されていることです。しかも、観音像の口がちょうど太子の口の高さとなるように置かれています。
これは、救世観音の化身とされる聖徳太子が三経講讃(三つのお経の解説)をしている姿を表したものです!
当然像の中身は外からは見えないのに、これほど作り込まれているということは、それだけ聖徳太子に対する信仰心が強かったことを示す像であるということでしょう。

太子像には侍者像もセットになっており、太子の子:山背大兄王、太子の異母弟:殖栗王・卒末呂王、そして太子の仏教の師:恵慈法師の4人です。
太子が厳しい表情をしている反面、4人の侍者の顔はユーモラスで面白いですね。
玉虫厨子
教科書でもお馴染みの「玉虫厨子」も展示されています。
よくよく探してみると、玉虫の翅が数枚まだ貼り付いています。
大量の玉虫の翅をちぎって貼ったと考えると結構グロいですね。^^;
塔本塑像 羅漢坐像
法隆寺の五重塔内に安置された塑像。釈迦入滅の場面を描いた像で、羅漢の慟哭の声が聞こえてきそうな表情豊かな像です。

聖徳太子が亡くなった時も、民衆が泣き悲しんだ描写がありますが、こんな表情で泣いた民もいたのかもしれませんね。
四天王立像
金堂内部の仏像も多数展示されています。金堂の内部は普段、金網の外からしか拝めないので、これほど近くからはっきりみることができる機会は大変貴重です!
資料は証言する。「聖徳太子は確かにいた!」

「聖徳太子はいなかった」
最近の歴史界隈ではこのような言説が通説になりつつあります。日本史の教科書でも「厩戸皇子(聖徳太子)」と書かれることが多いです。
しかし、資料は証言しています。「聖徳太子は確かにいた!」と。
本展覧会の公式図録P.8〜P.15「聖徳太子ー史実と信仰ー」にて、東野治之氏が下記の2つの点を指摘されています。
釈迦三尊像の光背銘

法隆寺の「釈迦三尊像」の光背銘について、東野治之氏は次のように指摘します。
- 光背銘には「621年12月、聖徳太子の母が亡くなり、翌年2月太子と妃(膳菩岐々美郎女)が病に倒れた。妃自身も子供たちも太子の快復を願い太子の身の丈と同じ釈迦像の造立を思い立ったが、成し遂げないうちに二人とも亡くなったので、翌623年にこれを完成した。仏師は司馬鞍首止利である。」と書かれている。
- この銘文が正しければ、太子は晩年には仏教に深い造詣と信仰を持つ「法皇(王)」として崇められていたことになる。
- 「像ができた後に入れられた銘ではないか」との疑問は、鋳造方法から否定される
- 「像本体がより時代を下るものではないか」との疑問には、像の様式や像内部の調査から七世紀後半の作とする説が有力な薬師如来坐像より先行することが認められているため、否定できる
- 以上より、「聖徳太子がいなかった」とは言えない。
なかなか興味深い考察ですね。現代に残っているものから聖徳太子の実在が浮かんでくるようです。
釈迦三尊像自体は今回の展覧会にはきていませんが、法隆寺金堂で見ることができます!
法華義疏

聖徳太子は、「法華経」「勝鬘経」「維摩経」の三つの経典を講義し、その注釈書を残しました。
中でも、法華経の解説書「法華義疏」は太子自筆と伝わり現存しています。そして、本展でも展示されており、生で聖徳太子直筆の字を見ることができます!
これが「本当に太子直筆のものか」について、東野治之氏は次のように述べています。
- 巻頭に「此は是れ、大委国の上宮王の私集にして、海彼の本に非らず」とあり、「大倭」ではなく「大委」と表記するのは八世紀初めを下らない古い文字使いである。また、書風も七世紀末から流入した欧陽詢風である。本文の筆跡も中国南北朝時代のものである。以上より、この「法華義疏」が七世紀のものであることは確か。
- 「法華義疏」は一度書きあげた文章を書き直したり、切り貼りして訂正した箇所も多く、明らかに草稿である。そんな草稿が、紙の貴重な古代において、書かれた当時の状態を保って伝わったことは尋常ではなく、後人の熱い思いが働いたためであり、聖徳太子の自筆本であると考えるべきだろう。
図録ではさらに詳しく解説されており、とても興味深かったので、拝観の際はぜひお買い求めください!
「聖徳太子」像と信仰の変遷

聖徳太子の像といえば、一万円札の肖像にも使われたこの肖像画を思い浮かべる人が大半だと思いますが、聖徳太子の像には「二歳像・七歳像・孝養像・水鏡御影」など色々な種類があり、この展示では様々な太子の顔を見ることができます。
そして、聖徳太子の本地仏(本当の姿とされる仏)も、実は時代・信仰とともに変化しました。
この項では公式図録P.258〜P.261「聖徳太子像の造像と救世観音」を参考にしています。
救世観音
法隆寺夢殿の本尊は救世観音であり、天平の頃には「太子=救世観音」のイメージがあったようです。
「聖徳太子は救世観音の化身である」という信仰は平安時代以降の書物等に現れます。
如意輪観音

鎌倉時代になり、西大寺叡尊や浄土真宗の開祖:親鸞などが太子信仰を取り込み、多くの仏像が作られるようになります。
夢殿本尊は秘仏であり、「太子=救世観音」のイメージが忘れられた一方、四天王寺本尊:如意輪観音への信仰から、「聖徳太子は如意輪観音の化身である」という信仰へ派生していきました。
こうした太子像の変遷も今回の展示でよくわかります。
見逃せないお土産・グッズ3選
図録
今回の展示品の解説・写真だけでなく、釈迦三尊像や救世観音像、百済観音像の写真も掲載された図録です。正直、この内容で2800円は安いと個人的には思います。
ぜひ、お買い求めください。
クリアファイル
今回の展示の目玉ともいうべき「聖徳太子および侍者像」のクリアファイル。
普段使いすることで、展示を思い出してテンションアップ!
絵はがき
いろんな作品のポストカード。
大切なあの人に送ってみてはいかが?
アクセス
東京国立博物館にて令和3年9月5日まで開催中。
まとめ
- 貴重な宝物を大量に見ることができる貴重な機会!
- 聖徳太子は確かにいたことが伝わる展示!
- 太子信仰の変遷もわかり、太子ファン必見の内容!
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
コロナでなかなか寺社巡りに出かけることもできませんが、このブログを読んでいただき、
「Stay Homeで寺社参拝」
した気分になっていただければ幸いです。是非、他の記事も覗いていってください!
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